1914年6月28日、ハプスブルク帝国の帝位継承者フランツ=フェルディナントがボスニアの州都サライェヴォで暗殺されました。この暗殺の背後にセルビア政府があると考えたハプスブルク帝国は7月28日にセルビアに宣戦を布告しました。

 こうして始まった戦争はやがてヨーロッパの主要国を巻き込み世界戦争になっていきました。

 中欧同盟と呼ばれるドイツ、ハプスブルク帝国、オスマン帝国と協商諸国と呼ばれるイギリス、フランス、ロシアが対峙しました。

 日本はそのころイギリスとの間で同盟関係を結んでいました。東アジアでは中国の山東半島にドイツが植民地を持っていました。特に青島軍港はドイツ海軍の重要な基地になっていました。

 日本はイギリスとの同盟関係に基づいて、1914年10月から11月にかけて青島のドイツ軍基地を攻撃して勝利しました。その結果4700人ほどのドイツとハプスブルク帝国の兵士が捕虜として日本に移送されました。

 初めのうち捕虜たちは寺院など臨時の施設に収容されていました。しかし戦争が長引くと、臨時の施設では捕虜たちの生活が不便になってきました。そこで日本政府は1915年になって本格的な収容施設を作り始めました。

 その一つが兵庫県青野原(現加西市)に作られ、それまで姫路や福岡で収容されていた捕虜たちが移ってきました。その数は500人ほどでした。

 日本の捕虜収容所体系の中で青野原はハプスブルク帝国兵を収容するという役割が与えられました。ハプスブルク帝国ではドイツ語、ハンガリー語、チェコ語など11の言語が使われていました。青野原に突然多言語世界が出現したのです。

 そこで一つのドラマが生まれました。ハプスブルク兵で青島で戦死した人の家族から戦死した時の様子を教えてほしいという依頼が青野原にありました。

 捕虜の一人がそれに応える形で、詳しい様子を手紙で知らせました。その後その家族と青野原で収容されていた捕虜との間で文通が始まり、やがて戦争が終わって帰国した時に捕虜だった人と戦死した人の妹さんが結婚することになり、いまでもその遺族の方たちがオーストリアで生活していることが明らかになりました。

  そこで捕虜たちの帰国からちょうど100年になる2019年11月から2020年2月に下オーストリア歴史博物館と加西市が協同して展示会を開くことになりました。捕虜たちが演奏した曲目を再現することも予定しています。

 100年の時を経て二つの地域の絆がもう一度活性化することを願っています。

 

大津留厚(プロジェクト代表・神戸大学名誉教授)